昭和50年 |
4月 : 北村豊先生、西村吉行先生と、二期生が中心となり、馬術同好会として7名にて発足。信州中山乗馬クラブ(松本市中山区)にて 活動開始。 |
6月 : 初代部長に坂井忠次教授(数学)就任す。 |
7月 : 郷原地区に自力にて厩舎建設す。(三馬房、一部室) |
8月 : 馬場(60m×40m)を自力にて開墾整地し、馬場建設す。(現在の歯科大陸上競技場)全日本学生馬術連盟 中部日本学生馬術連盟に加盟す。 |
9月 : 自馬二頭を養し、名実共に、自主独立した馬術部態勢を取る。 |
10月 : 監督に鶴田哲也氏、コーチに鈴木紀行氏就任す。 |
昭和51年 |
5月 : 第二代部長に中後忠男教授(矯正学)就任す。 |
6月 : 同好会から部に昇格す。 |
7月 : 中部日本学生馬術大会に初めて出場す。 |
8月 : 厩舎増築し、五馬房、二倉庫、一部室となる。 |
昭和52年 |
10月 : 歯科大学陸上競技場建設の為、馬場立ち退きとなり、現厩舎の南に練習場(20m×15m)を移す。 2回目の馬場立ち退き、部員にて自力で馬場整地し完成させた。 |
昭和53年 |
全日本学生馬術選手権大会(貸与馬)に出場。(山田博仁) |
10月 : 松本歯科大学部報第1号刊行す。 |
昭和54年 |
1月 : 第三代部長に川原一祐教授(生物学)就任す。 |
10月:全日本学生馬術選手権大会出場(山田博仁) |
11月:全日本学生馬術大会出場(山田博仁、雄進号) |
昭和55年 |
10月 : 3回目の馬場立ち退きとなり、竹下英吉氏の休耕地の畑を借り受け、練習場にあてる。部員のみにて3度目の馬場整備す。 |
昭和56年 |
7月 : 歯学体馬術部門に加盟す。 |
昭和59年 |
2月 : 駿風会(馬術部OB後援会)発会す。 |
9月 : 監督に鈴木紀行氏、コーチに望月一雄氏、山田博仁氏就任す。 |
昭和61年 |
10月 : 4回目の馬場移転となる。 敷地の関係で正方形とれず、三角形の馬場となる。 |
昭和62年 |
2月 : 大学との折衝にてトタン張り、足場材木仕立ての厩舎から、念願の厩舎、馬場新設のめど立つ。 |
12月 : 計画のみで厩舎、馬場新設実行されず。 止む無く、2度目の厩舎補修工事される。 (屋根の修復) |
昭和63年 |
5月 : 62年度の長野県 春・秋期馬場馬術部門での2度の総合優勝の結果、松本市より最優秀団体の顕彰を受ける。 |
6月 : 中部学生自馬競技会にて全日本学生馬術大会、中障害2回走行の出場権利を獲得す。(高橋治、爆烈風) |
10月 : 京都国体の長野県馬術チームの一員として選出される。(佐藤太 爆烈風) |
11月 : 第四代部長に北村豊助教授(口腔外科学I)就任す。 |
同 月 : 第三代部長川原一祐教授、馬術部顧問に就任す。 |
平成元年 |
4月 : コーチに埴田俊一氏就任す。 |
9月 : 大学より牧草地として土地(90m×30m)の使用許可を得、埴田コーチを中心に部員にて整地、オーチャード種まきをする。 |
10月 : 部役員に統制を置く。(初代高橋治) |
平成2年 |
8月 : 鈴木紀行氏、望月一雄氏技術顧問となり監督に山田博仁氏、コーチ埴田俊一氏体制となる。 |
平成3年 |
3月 : 馬場、厩舎立ち退くことになる。そのため一時的措置として、松本馬術協会に活動の場を移す。 |
9月 : 塩尻市洗馬地区に新厩舎馬場建設用地約900坪を獲得のための折衝に入る。 |
平成4年 |
1月 : 監督に津田真氏、コーチ高橋治氏就任す。 |
3月 : 新厩舎・馬場の新設は、成らず! |
4月 : 第5代馬術部長に、吉澤 英樹教授(生物学)就任す。 |
5月 : 松本馬術協会及び、松本市馬術競技場にて、再び活動を継続する。 |
平成10年 |
9月 : 小淵沢乗馬学校(山梨県 北杜市)に活動基盤を移す。 コーチに、仲澤 政雄氏(小淵沢乗馬学校)を招聘す。 馬場馬術に専心する体制を敷く。(〜H17年) |
平成18年 |
3月 : 活動拠点を小淵沢乗馬学校から、松本市馬術競技場に移す。 |
平成19年 |
10月 : コーチに望月 一雄氏 就任す。 |
平成21年 |
6月 : 2年間ブランクのあった、全日本学生予選の中部学生自馬大会に、再び照準を合わせ始める。 |
11月 : 馬術部駿風会ホームページを開設した。 部歴を詳細に振り返り、記録の野充実を図ってゆく中で、馬術部構成関係者の連携を図ってゆくことを目標とする。 |